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凡人ゲームプランナーの走り書き

運命の奴隷:「人はなぜ生きるのか」ということ

ジョジョの奇妙な冒険第5部「黄金の風」のテーマに、「運命の奴隷」という言葉がある。

森羅万象は運命というものを形作るための道具でしかないという考えであり、もちろん人もそうであるというものだ。

つまり人は生きているというよりも、運命に生かされているに過ぎない。

 

かの有名な実業家イーロン・マスクは「我々が生きるこの”現実”というのは誰かが作ったシミュレーションである」という「世界シミュレーション説」を支持するような発言をしていた。

もし我々がシミュレーション上に存在しているとするなら、運命というのは所詮コンピュータの計算でしかなく、そこに我々の「存在意義」みたいなものはあると言えるのだろうか。

 

私は割とこういう考えを支持する方で、それなりに妥当な考え方だと思っている。

これをただそのまま受け止めると、人生に意味などないという虚無的な主張になってしまうのだが、私は「黄金の風」が大好きだ。

それは「黄金の風」に登場するキャラクターたちがそういう運命を自覚しながらもその先に何か希望があると信じて戦うことを止めない、いつか目覚めようとする「眠れる奴隷」であるのが、いかにも人間らしい美しさであると思うからだ。

 

そもそもなんでこんな話を書こうかと思ったかというと、最近よく見るYoutubeチャンネルの動画で、そういう話の動画を見て思うところがあったからだ。

www.youtube.com


この動画で紹介されている本は、

1. 人は種の存続の為に生きる

2. 人には理性と本能がある

3. 幸せとは脳を喜ばせることである

ということを述べているというように要約されている。

 

個人的に思うところがあり過ぎたのでそれぞれ書くものとする。

 

*この先の話には個人を誹謗中傷する意図はないが、人によっては冒涜的と感じる表現や内容が含まれる場合があるので注意されたし。

 

1.種の存続の為に生きる

生命は種を存続させるのが目的である、なのでそのために生きるのだという主張であり、まあ理解はできる。

だがなぜ生命は種を存続させるのかというところについては「そういうものだから」と言って考えを放棄してしまっている。

そもそも「種の存続」という状態はどのような状態を指すのだろうか。

一般には持続可能かつ個体数が増加し続けるような状態を「種の存続」というのだろうが、ヒトという種は本当にそういう風に存続するように生まれた生物なのだろうか。

頭でっかちになってしまったがゆえに、ヒトという存在の在り方を勝手に規定しているだけではないのだろうか。

何にしても「人はなぜ生きるのか」という生命の誕生以来の命題を「そういうものだから」なんて乱暴な帰結に至るのはいただけない。

 

2. 人には理性と本能がある

という話で、種の存続の為に発達した脳が時に種の存続と反した行動をとることがあると書かれていた。

それは確かにそうなのであるが、例として挙げられていた避妊や自殺というのは、「種の存続」に反した行動というのはやや無理があるように思う。

まず避妊というのはマクロ的に見れば出生率や個体数の調整というシステムの一つであって、そういうシステムは「種の存続」のためだけに生きているであろう人以外の生物にも備わっている。

身体的、経済的なコストによって避妊をするということは、種の存続の為に「自分が死ぬ」のを避けることであったり、生命を存続させるには十分な資源がないことであり、むしろその理性によって「種の存続」の為に取った行動だとも言える。

次に自殺というのは「種の存続」に反した行為かどうかは立証できないということだ。

ヒトは種族としての大きな維持システムのうちに、アポトーシスという機能が備わっていて、そのために死んでいくのかもしれないということだ。

(ちょうどいい考察を見つけたので貼っておく。) 

https://note.com/code1110/n/n6c58b063e95d

 

この記事では反証として、増えた自殺によって集団としての日本の社会が健康な社会になっているわけではないということを挙げているが、これに対する反駁的な説明はいくつかすぐに思いつく。

例えば、アポトーシスがヒトの認識を超えたシステムであるとするなら、幸福度や健全さなどと言う、人が考えた尺度を超える「大きな力」によって動いているはずだ。

そのような力に、果たして人が考える「種の存続」という考えは通用するのだろうか。

あるいは、ヒトという集団を生物の細胞に例えるなら、不良細胞が正常細胞によって除去されるような現象なのではないだろうか。

そう捉えるなら、自殺というアポトーシスに成功したから集団が持続可能という意味で健全な状態に戻り、自殺者が減っているとも捉えられるのではないだろうか。

まあどちらにしてもそのような「大きな力」を立証するのは不可能であろう。

(この例えはヒトという種族を一種の維持システムとしてマクロ的に捉えたことによる考察であり、一個人に対して誹謗中傷ではなく、また自殺を幇助する目的でもなく、一切の自殺を引き起こすような行為を擁護するものでもないことを付け加える)

 

元の動画の本の話に戻ると、結局のところ人間が行う全ての行為は「種の存続」の為に行われていると捉えることも出来るのではないか、ということだ。 

そう考えた時、我々は自らの意志による「理性」によって何かを判断していると言えるのだろうか。

 

3. 幸せとは脳を喜ばせることである

この本全体としての主張は、理性によって「幸せ」の最大値を探して生きていくんだよ、ということだ。

そりゃそうですね、と言ったらそれで終わりなのだが、それだけだと何の意味もない誰でも知っていることなのでもう少し深読みする。

(そもそも「幸せをつかむ脳の使い方」という書籍なので、なんとなく「幸せ」みたいなものが欲しいと思っている人たちをターゲットにしているからそんなことを考える必要はないのだろうが)

 

それは人はなぜ本能的な快楽を理性的に制御する必要があるのか、ということだ。

これは結局、本能と理性が本来「種の存続」の為に存在している機能だからである。

本能が感じる快楽は「種の存続」に必要不可欠だが、時としてそれを騙る存在(薬物やタバコなど)が存在や長期的な予測が必要な判断が存在するので、それを理性が捌く。

「種の存続」を「そういうものだから」として受け取ってしまうなら、理性も本能も「大きな力」によって支配されたシステムでしかなく、「種の存続」の為に生きているだけになってしまう。

ただ漫然と「種の存続」の為に生きることは、本当に「自我を持った人」であると言えるのだろうか。

私はそれでもなお、「大きな力」に対して疑問を持ち、どうしようもない運命の先に何かを見出す力こそが「理性」だと信じている。

だから個人的にはこの本全体の主張が相容れないものである。

もし「種の存続」という「大きな力」に従うだけならば、それは目覚めることのない「運命の奴隷」だ。

理性とはそこから目覚めようとする「眠れる奴隷」たる資格なのだ。

それこそが人の美しさであり、人が人である所以なのだ。

 

 

 

というか、「種の存続」の為に生きるんだ!って言われて、はいわかりましたなんて気持ち悪いだろ、普通。

「そういうものだから」で納得できるのは小学生までだ。

いまさらアニメ「ピンポン」のこと:「ヒーロー」とは何か


私の個人的な感覚でしかないのだが、作者の主張が感じ取れない作品は大抵クソである。

その主張というのは愛だったり友情だったり作者の好みだったり、社会派なら戦争の悲惨さだったりまあ別に何でもいいのだが、人はそれを魂と呼ぶのだ。

(最近の)エンタメは魂のない見てくれだけの抜け殻が多すぎるように感じる。

少なくとも自分が関わる作品がそんなことにはならないように心がけたいものである。

 


時に、アニメ「ピンポン」は最高のアニメである。

ストーリー・演出・展開が主張の織り込みに完璧にマッチしている。

「映像研には手を出すな!」が湯浅監督によってアニメ化されたので記念に思い出しながら書くものとする。

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アニメ「ピンポン」とは

アニメ「ピンポン」は同名の原作漫画が鬼才・湯浅政明監督によって2014年にアニメ化されたものである。

タイトル通り卓球をテーマにした高校生が織りなす友情・努力・勝利の物語なのだが、全部を説明するには長いし、考察記事はたくさんあるし大筋ではどれも大体同じ解釈なのでそちらを読んでいただきたい。

↓これとか

https://thinking-puddle.com/ping-pong-and-talent

ちなみに原作とアニメとは若干解釈が異なる点も出てくるがここでは触れないことにする。

 

「ヒーロー」とは何か

先に張った考察記事の通り、アニメ「ピンポン」は才能と愛をめぐるスポ根物語であり、「なぜ卓球を続けるのか」が物語の着地点である。

スマイルにとっては「暇つぶし」であり、ドラゴンにとっては「宿命」であり、チャイナにとっては「出世」ある。

しかしそれは卓球である必要はなく、ただ存在意義としての手段でしかない。

一方で人間にとってはそれが普通であり、皆なにかしら出自や人間関係に因る理由を持ち合わせている。

しかしペコは純粋なる卓球への「愛」が動機である。

そこには一点の曇りもなく、その他のすべての干渉を受けない。

だからペコは人を超えた「ピンポン星人」であり「ヒーロー」なのである。

つまり純粋なる愛が最大の才能であるというのがこの作品の言わんとすることの一つであり、いかにもスポ根漫画的というかジャンプ的というか、王道的な主張だ。

 

しかしながら、私としてはどちらかというと「ヒーロー」という存在が何なのかというのがこの物語の最も大事なところな気がしているので、「ヒーロー」について一考したものを書くがあくまで一視聴者の憶測によるものなのであしからず。

 

「ピンポン」における「ヒーロー」

ヒーローというのは大体、非凡な能力だったり正義の化身だったり常勝不敗だったりと、その時々の理想像であることが多い。

が、ひとまず「ピンポン」における「ヒーロー」とは何かを考えたい。

オババ:スマイルのために、打つのかい?

ペコ :ちげえよオババ、オイラがヒーローだからっしょ!

というインターハイ準決勝前の問答がある。

ペコは膝に爆弾を抱えていて、これ以上試合をすれば卓球が出来なくなるかもしれないという状況にあった。

卓球を何より愛しているならここでやめる判断をするはずだし、けがを押してでもやる理由が友であるスマイルのためでもなく、「ヒーロー」だからだというのだ。

このセリフから察せるのは、ペコは「ヒーロー」という理想像を果たすことこそが自分の生き甲斐であると感じているということだ。

ヒーローは理屈を超えてゆく。
ヒーローは常識を覆し、闇を吹っ飛ばす。
何より単純で、明るく、楽しく、輝いている。

というスマイルの独白や

ヒーローに弱点なんてありませんよ。

というセリフからもわかるように、「ピンポン」における「ヒーロー」は小学生が思い描くような、とんでもなく都合のいい完全無欠の存在を指している。

ペコはこの純真すぎるヒーロー像を体現し続けようとする存在であり、だからこそ「無敵のピンポン星人」であり続けるために棄権しなかったのではないだろうか。

誰より卓球を純に愛する天才だからヒーローになれたのではなく、言ってしまえば幼稚すぎるそのヒーロー像を貫かんとする生き様こそがペコを「ヒーロー」たらしめているのではないだろうか。

つまり「ヒーロー」とは、理想のために殉じる愚直さを持つ者なのだ。

 

スマイルとドラゴンはペコという「ヒーロー」にあこがれているがそうはなれなかったというのが最終話のエピローグ部分からわかる。

スマイルは卓球選手の道からは外れ、ドラゴンは日本代表から外され「凡庸な選手」になってしまった。

(ドラゴン自身が「凡庸な選手で終わりたくない」と話す時、背景にはペコのゴシップ写真が流れている)

この二人は「ヒーロー」になることを諦めてしまっているのだろう。

逆にチャイナは日本代表として初選出されていた。

これはチャイナが現実を受け入れながらも、卓球選手としてのし上がるという夢を諦めなかったからなのだ。

かつてスコンクで破ったペコが「ヒーロー」に返り咲いたように、チャイナも同じ道を歩んでいると言えるのではないだろうか。

 

「ヒーロー」の資格

人は人間関係とか世間体とか常識とか、現実という枷が案外複雑に絡まっている。

理想を成すといってもそれは多くの場合、何かしら別の動機を孕んでいる。

それは大抵の場合、それを成すことによって認められたいという承認欲求だったり、モテたいという色欲だったり、お金持ちになりたいという物欲だったりする。

だからこそ、人の欲を超えて理想を追求する姿は特別であり、美しく見える。

ペコが体現した「ヒーロー」もまさにそうであって、「だってその方がかっこいいっしょ?」と言いたげな生き様はなによりも純粋で美しい。

チャイナはペコに近いがペコになれないのは、未だ人の欲から離れ切れていないからではないだろうか。

真の「ヒーロー」たる資格は、純真なる者にのみ与えられるのだ。

 

人は「ヒーロー」になれるのか

私は「ピンポン」を、「ヒーロー」とそれを目指す者たちの物語と解釈したい。そう考えると「ピンポン」は何とも生々しい現実を見せつけながらも、人間の素晴らしさを称えた青春劇なのである。

作中、ペコという「ヒーロー」に触れた才気ある選手たちはその素晴らしさを知りながらも「ヒーローのようには飛べない」と、「ヒーロー」には成り得ないということを自覚しているような描写がいくつもある。

これは我々人間は「ヒーロー」になる資格を持たないということを暗示しているのではないだろうか。

人が人である以上、完璧な純真さというものを手に入れることは出来ないのは想像に難くない。

ペコという存在は理想でしかなく、我々は「ヒーロー」になることは出来ないという現実を匂わせているのだ。

しかし、スマイルやドラゴン、チャイナ(ついでにアクマ)は暗く立ち止まることなく、前に向かって進んでいる。

人は「ヒーロー」にはなれない。だけどそれを乗り越えて生きて行ける。

「ピンポン」はそういう人間の力強さを謳っているのではないだろうか。