いまさらアニメ「ピンポン」のこと:「ヒーロー」とは何か
私の個人的な感覚でしかないのだが、作者の主張が感じ取れない作品は大抵クソである。
その主張というのは愛だったり友情だったり作者の好みだったり、社会派なら戦争の悲惨さだったりまあ別に何でもいいのだが、人はそれを魂と呼ぶのだ。
(最近の)エンタメは魂のない見てくれだけの抜け殻が多すぎるように感じる。
少なくとも自分が関わる作品がそんなことにはならないように心がけたいものである。
時に、アニメ「ピンポン」は最高のアニメである。
ストーリー・演出・展開が主張の織り込みに完璧にマッチしている。
「映像研には手を出すな!」が湯浅監督によってアニメ化されたので記念に思い出しながら書くものとする。
アニメ「ピンポン」とは
アニメ「ピンポン」は同名の原作漫画が鬼才・湯浅政明監督によって2014年にアニメ化されたものである。
タイトル通り卓球をテーマにした高校生が織りなす友情・努力・勝利の物語なのだが、全部を説明するには長いし、考察記事はたくさんあるし大筋ではどれも大体同じ解釈なのでそちらを読んでいただきたい。
↓これとか
https://thinking-puddle.com/ping-pong-and-talent
ちなみに原作とアニメとは若干解釈が異なる点も出てくるがここでは触れないことにする。
「ヒーロー」とは何か
先に張った考察記事の通り、アニメ「ピンポン」は才能と愛をめぐるスポ根物語であり、「なぜ卓球を続けるのか」が物語の着地点である。
スマイルにとっては「暇つぶし」であり、ドラゴンにとっては「宿命」であり、チャイナにとっては「出世」ある。
しかしそれは卓球である必要はなく、ただ存在意義としての手段でしかない。
一方で人間にとってはそれが普通であり、皆なにかしら出自や人間関係に因る理由を持ち合わせている。
しかしペコは純粋なる卓球への「愛」が動機である。
そこには一点の曇りもなく、その他のすべての干渉を受けない。
だからペコは人を超えた「ピンポン星人」であり「ヒーロー」なのである。
つまり純粋なる愛が最大の才能であるというのがこの作品の言わんとすることの一つであり、いかにもスポ根漫画的というかジャンプ的というか、王道的な主張だ。
しかしながら、私としてはどちらかというと「ヒーロー」という存在が何なのかというのがこの物語の最も大事なところな気がしているので、「ヒーロー」について一考したものを書くがあくまで一視聴者の憶測によるものなのであしからず。
「ピンポン」における「ヒーロー」
ヒーローというのは大体、非凡な能力だったり正義の化身だったり常勝不敗だったりと、その時々の理想像であることが多い。
が、ひとまず「ピンポン」における「ヒーロー」とは何かを考えたい。
オババ:スマイルのために、打つのかい?
ペコ :ちげえよオババ、オイラがヒーローだからっしょ!
というインターハイ準決勝前の問答がある。
ペコは膝に爆弾を抱えていて、これ以上試合をすれば卓球が出来なくなるかもしれないという状況にあった。
卓球を何より愛しているならここでやめる判断をするはずだし、けがを押してでもやる理由が友であるスマイルのためでもなく、「ヒーロー」だからだというのだ。
このセリフから察せるのは、ペコは「ヒーロー」という理想像を果たすことこそが自分の生き甲斐であると感じているということだ。
ヒーローは理屈を超えてゆく。
ヒーローは常識を覆し、闇を吹っ飛ばす。
何より単純で、明るく、楽しく、輝いている。
というスマイルの独白や
ヒーローに弱点なんてありませんよ。
というセリフからもわかるように、「ピンポン」における「ヒーロー」は小学生が思い描くような、とんでもなく都合のいい完全無欠の存在を指している。
ペコはこの純真すぎるヒーロー像を体現し続けようとする存在であり、だからこそ「無敵のピンポン星人」であり続けるために棄権しなかったのではないだろうか。
誰より卓球を純に愛する天才だからヒーローになれたのではなく、言ってしまえば幼稚すぎるそのヒーロー像を貫かんとする生き様こそがペコを「ヒーロー」たらしめているのではないだろうか。
つまり「ヒーロー」とは、理想のために殉じる愚直さを持つ者なのだ。
スマイルとドラゴンはペコという「ヒーロー」にあこがれているがそうはなれなかったというのが最終話のエピローグ部分からわかる。
スマイルは卓球選手の道からは外れ、ドラゴンは日本代表から外され「凡庸な選手」になってしまった。
(ドラゴン自身が「凡庸な選手で終わりたくない」と話す時、背景にはペコのゴシップ写真が流れている)
この二人は「ヒーロー」になることを諦めてしまっているのだろう。
逆にチャイナは日本代表として初選出されていた。
これはチャイナが現実を受け入れながらも、卓球選手としてのし上がるという夢を諦めなかったからなのだ。
かつてスコンクで破ったペコが「ヒーロー」に返り咲いたように、チャイナも同じ道を歩んでいると言えるのではないだろうか。
「ヒーロー」の資格
人は人間関係とか世間体とか常識とか、現実という枷が案外複雑に絡まっている。
理想を成すといってもそれは多くの場合、何かしら別の動機を孕んでいる。
それは大抵の場合、それを成すことによって認められたいという承認欲求だったり、モテたいという色欲だったり、お金持ちになりたいという物欲だったりする。
だからこそ、人の欲を超えて理想を追求する姿は特別であり、美しく見える。
ペコが体現した「ヒーロー」もまさにそうであって、「だってその方がかっこいいっしょ?」と言いたげな生き様はなによりも純粋で美しい。
チャイナはペコに近いがペコになれないのは、未だ人の欲から離れ切れていないからではないだろうか。
真の「ヒーロー」たる資格は、純真なる者にのみ与えられるのだ。
人は「ヒーロー」になれるのか
私は「ピンポン」を、「ヒーロー」とそれを目指す者たちの物語と解釈したい。そう考えると「ピンポン」は何とも生々しい現実を見せつけながらも、人間の素晴らしさを称えた青春劇なのである。
作中、ペコという「ヒーロー」に触れた才気ある選手たちはその素晴らしさを知りながらも「ヒーローのようには飛べない」と、「ヒーロー」には成り得ないということを自覚しているような描写がいくつもある。
これは我々人間は「ヒーロー」になる資格を持たないということを暗示しているのではないだろうか。
人が人である以上、完璧な純真さというものを手に入れることは出来ないのは想像に難くない。
ペコという存在は理想でしかなく、我々は「ヒーロー」になることは出来ないという現実を匂わせているのだ。
しかし、スマイルやドラゴン、チャイナ(ついでにアクマ)は暗く立ち止まることなく、前に向かって進んでいる。
人は「ヒーロー」にはなれない。だけどそれを乗り越えて生きて行ける。
「ピンポン」はそういう人間の力強さを謳っているのではないだろうか。