何かを作りたいだけ。

凡人ゲームプランナーの走り書き

UXに対して思うこと

ゲームの企画を作るときに、大抵はユーザーエクスペリエンス(UX)がどうなんだとかコンセプトはなんなんだとか、一言で言おうとすることがすごく多い。

企画においてUXは、概ねゲームのアクション性とかシステムとかについて、どういう風に楽しいかということを指している。

「一気になぎ倒す爽快感」だとか、「一人ではできない困難を超える達成感」だとか。

またゲームが目指す体験の理想状態をUXビジョンと呼んだりするらしいが、最近こういうある種の「ツール」のようなものに対して疑問を持つようになってきた。

 

まず、こういう「ツール」は繰り返しの多いゲーム(ソーシャルゲームとか対戦型ゲーム)においてはかなりの効果を発揮する。

それはそもそもゲームとして遊びのシステムが単一か非常に限られているから、その部分を洗練させることがゲーム全体の体験を向上させる上で非常に効果が高いだからだ。

逆にオープンワールドサンドボックス型のゲームではそういう考え方が邪魔をするような気がする。

例えば、「GTA」や「マインクラフト」に含まれる遊びすべてを何かしらの理想状態として具体的に定義することはできるのだろうか。

そういうゲームを考える時、UXを絞ることはゲームの可能性を狭めているに感じる。

欧米人はよく「ゲームをやっている自分は自由であるはず」という考えを持っているらしく、制限が多かったり、できることが少ないゲームにストレスを感じるらしい。

世界をどんと一つ作って、あとはお好きにどうぞ。というのが今後(というかすでに)ゲームの主流なのではないだろうか。

そういうゲームでは何かクリアする達成感を得るのではなく、面白いことを考える楽しさがメインのUXになっていて、もはや楽しさの大部分がプレイヤーのアイデアにゆだねられている。

ただ、ある程度は与えられた課題というのを用意してあげる必要もあるだろう。

 

それと、いつかの企画書を作っている時に「試行錯誤する楽しさ」についてうまく伝えられないというか、感覚の差のようなものを感じたことがあった。

「試行錯誤」は一般に達成感や発見することの喜び、それに対する期待感と高揚感あたりが楽しいと感じるポイントだと思う。

その中でもうまくいったときの達成感が一番大きな楽しさを感じるポイントだとその時は言われた。

でも人によってはその道中の試行錯誤している最中が最も楽しい人もいる(自分がそうだった)。

あらゆる事に関する感覚は、思っているよりもかなり個人差があると感じた瞬間だったし、この感覚の差だけでも実装が全然変わってしまうのを感じた。

だけどどっちの感覚が一般的かとか、優先すべきなのかということを考えるには少し難しいようにも思う。

ある行為による楽しさを感情に抽象化させることには限界があるだろうというのが自分のなんとなくの感覚だ。

人の感情は思っているよりもずっと複雑だ。

抽象化しすぎたモノは何か人間的な「味」や深みを失ってはいないだろうか。

そういう楽しさを無理に言語化する必要はあるのだろうか。

実際、細かい仕様とかサブコンテンツみたいなのは「ノリ」みたいな大雑把な感覚の共有で決まっていくことも多々ある。

 

尤も分析的な言語化というのは大切だ。が、シンギュラリティになるような名作っていうのは往々にして天才の才能という圧倒的な感覚によって作られている。

凡人には厳しい現実である。