何かを作りたいだけ。

凡人ゲームプランナーの走り書き

何が《私》を成すのか | 魂の形

人が人を認識する時に、その人の何を以って「その人」であると認識しているのだろうか。これは私が日常的に感じている問題で、つまりは何が《私》を成すのか、ということだ。
なんでこんな問題を日常的に考えているかというと、私個人の感覚として、自分が何か生み出したり、成果を出したりしたものが評価されることと、自分自身が評価されることにものすごい乖離があるように感じているのだが、一般的には一致しているはずだからだ。
この感覚を理解できるように説明するのはすごく難しいように思うが、例えば「○○が上手ですね」と言われれば、それはスキルを褒められたのであって、《私》を褒めているわけではないという感じだ。
当然私も人間なので、褒められれば喜ぶし、貶されれば悲しんだり怒ったりする。
だけどそういう感情が私そのものとは離れた場所で起きているように感じてしまう。
この問題は個人的にかなり根深くて、他の多くの問題にかかわってくると思っている。例えば、「愛」とは一体何に向けられているのだろうかという問題だ。
「愛」の対象が金銭や名誉的な価値等のわかりやすいステータスであるならば問題ではないのだが、「無償の愛」だとか、「運命」だとかの、《私》という存在を愛している場合を考えるとわからなくなってくる。
《私》が揺るぎないものだとするなら、私を構成する要素のすべてに必然性はない。
もし私が別の人生を歩み、カンボジアに学校を建てていたり、メキシコでカルテルをやっていたりしていても私の《私》は同じであるだろう。
揺るぎない《私》を愛しているとするなら、それは真に表現することは出来ないだろう。《私》という問題が、真に説明不可能であることはウィトゲンシュタインがはるか昔に述べている。
そう考えると、《私》を真に承認したり「愛」することは不可能であるように思えてくるわけだ。
私の考えすぎなのだろうが、そうだとしても現に感覚としてあることを無下に否定は出来ないようにも思う。

 

時に《私》とは「魂」と言い換えられることも多い。
多くの場合「魂」は肉体という器に宿る非物理的な何かであると語られる。
「魂」が人間のコアであって、精神や自我なども「魂」に含まれていることが多い。
しかしこの頃、私は「魂」こそが器なのではないかと思う。
認知されることによってそこに存在するわけだから、(それがどんな状態かはわからないが)認知可能な状態の最低ラインが「魂」なのではないだろうか。
そう考えると、「魂」は自我がないとされる生物や無生物にもあると考えることも出来る。
ただ人はそういうものに何か価値を見出すことはできるのだろうか。


どうやら《私》が褒められたと感じるためには相当奇特な人と出会わなければいけないようだ。
「《私》さんが存在しています」というだけの何かを人は愛することができますかね?

無理か。