何かを作りたいだけ。

凡人ゲームプランナーの走り書き

「幸せ」の答え探し、あるいは未知への羨望

「幸せ」とはなんだろう。
時にそれは「幸福度」という尺度によって測られることがある。
さて、それは本当に幸福を客観的に評価し得ているのだろうか。

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幸福と関係はあるが,幸福とは別の「何ものか」を測っていると思われるから.
最もシンプルに解釈すれば,それは
生活満足度を測っている.

 この記事でも触れられているように、実際世の中で行われている幸福度測定というのは、物質的あるいは経済的な側面を測るようなもので、それは生活満足度と呼ぶべきものであり、幸福を成す要素の一部に過ぎないと考えられる。
それは不自由のない衣食住であったり、心身の自由であったり、将来的な経済的成長の兆しであったりする。
なるほど確かに、「生活満足度」では幸福という感情ないしは状態を全て網羅できないように思える。

では「幸せ」とはなんだろう。
一つ、最も根本的な要素を上げるとするならば、それは「思い通りになる」ことだろう。
よりおいしいものが食べたい、より大きな家に住みたい、より豪勢に遊びたい、などという欲求が「思い通りになる」ことによって人は「幸せ」を感じるのだと私は考える。
そしてこの「思い通りになる」ということは、多くの人にとって、幸せの共通項であると言えるだろう。
そして「思い通りになる」ということは、「未知を探求する」ことにつながる。
つまり、まだ自分が体験していないことに対する欲求であると言える。
私はそう考えた時、「人生はどうあっても未知の探求なのではないか」と思うようになった。

※ここより下は私個人の極端な価値観による雑感である

私は生まれてこの方、おそらく真に「幸せ」というものを解したことが無い。
何をするにしてもそれを俯瞰して見ている自分がいて、常に疑問を持ち続けてしまう。
それは本当に幸せというものなのだろうか、と。
私はこれまでずっと、客観的に見たら恵まれた人生というものを送ってきている。
だがより豪華な暮らしだったり、経済的に恵まれることにはそれほど興味を持てない。
むしろそういう「豊かな生活」とやらを送ることが普遍的な幸福であるかのような前提で話している人をみると、ナンセンスな人間だなと思う。
「豊かな生活」には存在しない体験は絶対あるし、そこから生み出されるものも多い。
だから私は先住民族の伝統的な生活であったり、ghettoでの日常であったり、戦国時代の農民の毎日であったり、”現代の”価値観では豊かとは言えない体験に対してある種の羨望を抱いている。
今の私とは程遠い生活の中には、私には決して知り得ない未知の体験が数多く存在しているに違いないからだ。
つまるところ未知を体験できるのであれば、それが何であっても、私にとっては価値あることなのだと思う。
加えて、より想像し難いものであればあるほど、価値が高いと感じられる。
今そこにいる誰かが体験している人生もまた、私にとっては未知の体験には違いない。
そして私が今体験しているこの人生も、同様に未知の体験であることに違いない。
むしろこの人生こそが、私の体験し得る最も想像し難い未知の体験なのかもしれない。
そうだとしたら、私はこの後も決して真の「幸せ」を感じることはないのだろう。
そうと分かることは決して無く、ただ「未知」の上を歩き続けるだけなのだから。