「幸せ」の答え探し、あるいは未知への羨望
「幸せ」とはなんだろう。
時にそれは「幸福度」という尺度によって測られることがある。
さて、それは本当に幸福を客観的に評価し得ているのだろうか。
幸福と関係はあるが,幸福とは別の「何ものか」を測っていると思われるから.
最もシンプルに解釈すれば,それは生活満足度を測っている.
この記事でも触れられているように、実際世の中で行われている幸福度測定というのは、物質的あるいは経済的な側面を測るようなもので、それは生活満足度と呼ぶべきものであり、幸福を成す要素の一部に過ぎないと考えられる。
それは不自由のない衣食住であったり、心身の自由であったり、将来的な経済的成長の兆しであったりする。
なるほど確かに、「生活満足度」では幸福という感情ないしは状態を全て網羅できないように思える。
では「幸せ」とはなんだろう。
一つ、最も根本的な要素を上げるとするならば、それは「思い通りになる」ことだろう。
よりおいしいものが食べたい、より大きな家に住みたい、より豪勢に遊びたい、などという欲求が「思い通りになる」ことによって人は「幸せ」を感じるのだと私は考える。
そしてこの「思い通りになる」ということは、多くの人にとって、幸せの共通項であると言えるだろう。
そして「思い通りになる」ということは、「未知を探求する」ことにつながる。
つまり、まだ自分が体験していないことに対する欲求であると言える。
私はそう考えた時、「人生はどうあっても未知の探求なのではないか」と思うようになった。
※ここより下は私個人の極端な価値観による雑感である
私は生まれてこの方、おそらく真に「幸せ」というものを解したことが無い。
何をするにしてもそれを俯瞰して見ている自分がいて、常に疑問を持ち続けてしまう。
それは本当に幸せというものなのだろうか、と。
私はこれまでずっと、客観的に見たら恵まれた人生というものを送ってきている。
だがより豪華な暮らしだったり、経済的に恵まれることにはそれほど興味を持てない。
むしろそういう「豊かな生活」とやらを送ることが普遍的な幸福であるかのような前提で話している人をみると、ナンセンスな人間だなと思う。
「豊かな生活」には存在しない体験は絶対あるし、そこから生み出されるものも多い。
だから私は先住民族の伝統的な生活であったり、ghettoでの日常であったり、戦国時代の農民の毎日であったり、”現代の”価値観では豊かとは言えない体験に対してある種の羨望を抱いている。
今の私とは程遠い生活の中には、私には決して知り得ない未知の体験が数多く存在しているに違いないからだ。
つまるところ未知を体験できるのであれば、それが何であっても、私にとっては価値あることなのだと思う。
加えて、より想像し難いものであればあるほど、価値が高いと感じられる。
今そこにいる誰かが体験している人生もまた、私にとっては未知の体験には違いない。
そして私が今体験しているこの人生も、同様に未知の体験であることに違いない。
むしろこの人生こそが、私の体験し得る最も想像し難い未知の体験なのかもしれない。
そうだとしたら、私はこの後も決して真の「幸せ」を感じることはないのだろう。
そうと分かることは決して無く、ただ「未知」の上を歩き続けるだけなのだから。
何が《私》を成すのか | 魂の形
人が人を認識する時に、その人の何を以って「その人」であると認識しているのだろうか。これは私が日常的に感じている問題で、つまりは何が《私》を成すのか、ということだ。
なんでこんな問題を日常的に考えているかというと、私個人の感覚として、自分が何か生み出したり、成果を出したりしたものが評価されることと、自分自身が評価されることにものすごい乖離があるように感じているのだが、一般的には一致しているはずだからだ。
この感覚を理解できるように説明するのはすごく難しいように思うが、例えば「○○が上手ですね」と言われれば、それはスキルを褒められたのであって、《私》を褒めているわけではないという感じだ。
当然私も人間なので、褒められれば喜ぶし、貶されれば悲しんだり怒ったりする。
だけどそういう感情が私そのものとは離れた場所で起きているように感じてしまう。
この問題は個人的にかなり根深くて、他の多くの問題にかかわってくると思っている。例えば、「愛」とは一体何に向けられているのだろうかという問題だ。
「愛」の対象が金銭や名誉的な価値等のわかりやすいステータスであるならば問題ではないのだが、「無償の愛」だとか、「運命」だとかの、《私》という存在を愛している場合を考えるとわからなくなってくる。
《私》が揺るぎないものだとするなら、私を構成する要素のすべてに必然性はない。
もし私が別の人生を歩み、カンボジアに学校を建てていたり、メキシコでカルテルをやっていたりしていても私の《私》は同じであるだろう。
揺るぎない《私》を愛しているとするなら、それは真に表現することは出来ないだろう。《私》という問題が、真に説明不可能であることはウィトゲンシュタインがはるか昔に述べている。
そう考えると、《私》を真に承認したり「愛」することは不可能であるように思えてくるわけだ。
私の考えすぎなのだろうが、そうだとしても現に感覚としてあることを無下に否定は出来ないようにも思う。
時に《私》とは「魂」と言い換えられることも多い。
多くの場合「魂」は肉体という器に宿る非物理的な何かであると語られる。
「魂」が人間のコアであって、精神や自我なども「魂」に含まれていることが多い。
しかしこの頃、私は「魂」こそが器なのではないかと思う。
認知されることによってそこに存在するわけだから、(それがどんな状態かはわからないが)認知可能な状態の最低ラインが「魂」なのではないだろうか。
そう考えると、「魂」は自我がないとされる生物や無生物にもあると考えることも出来る。
ただ人はそういうものに何か価値を見出すことはできるのだろうか。
どうやら《私》が褒められたと感じるためには相当奇特な人と出会わなければいけないようだ。
「《私》さんが存在しています」というだけの何かを人は愛することができますかね?
無理か。
感想「サザンと彗星の少女」
レトロフューチャー的なSFが好きなので、アマゾンでたまたま見かけてそのまま買った。
上下巻で合計500ページほど。
絵柄的には手塚治虫やジブリの影響を強く感じさせるし、内容も正にその通りだった。
全編アナログで書かれているため、一層オールドスクールの雰囲気を醸し出している。
SFによくある難解な設定とかは出てこない上、物語としては非常に単純明快な冒険譚という感じなので、これといって深く読み解く部分はない。
(自分としては難解な方が好みだが)
なのでSF風という方が正しく伝わるかもしれない。
総評としては良作だが名作や傑作ではないというラインだろうか。
以下、内容に関する批評の書き止め
所謂ボーイミーツガール的なお話の様式美とも言えるくらい普通の展開で、最初の30ページぐらいで最後のオチまでわかるレベルだ。話そのものに新鮮味みたいなのは感じなかった。
というか、話の流れは「天空の城ラピュタ」そのものといっても過言ではないだろう。
設定についても考証が甘いというか、別にSFである必要がないなというのが正直な感想で、彗星人であるミーナが持つ力がご都合的なまま終わってしまったりだとか、
そもそも幼い時から迫害され流浪してきたような少女が一般的に想像する「純真で孤独な少女」という人格を形成し得るのかとか、
AIが極端な思想に陥ったり、人間になりたがったり、復讐したりというのはさすがにアイデアが古いかなと感じるところとか、
SFらしい設定が十分に生かされていなかったりだとかで、今一つだった。
それと、人間賛歌的な終わり方なのに人間の陰惨で汚くて愚かな部分があまりにも少ないせいでものすごく薄っぺらく感じてしまう。
これは私個人の好みでしかないのだが、人間っていうのはもっと悪魔的な生き物だと思うし、AIもミーナも実はもっと大きな黒幕的存在に利用されているに過ぎないみたいなのを匂わせているとすごくSF的で良いのになと思った。
加えてAIとミーナは同じ作られたもの同士で共通するところがあるので同情できるみたいな場面が出てくるが、これにものすごいずれがあるように見えた。
というかミーナの出生についての情報が少ないので正直ミーナの言葉にはあまり重みを感じないというか、共感できなかった。
なので正しき道に進むミーナと道を違えたままのAIで対比になっている、ある意味物語の最重要ポイントなわけなのだが、いまいち説得力がないように思ってしまった。
それこそラピュタのような、二時間程度の映画にする前提ならまあわからなくはないが、高いメッセージ性や問題提起などの、作者の思想が感じられるような作品ではないと感じた。
まあ元々は短編になる予定だった作品らしいので、読みやすく、あくまで万人が見れるエンタテインメントに落としどころを付けたのだろう。
名作と呼ぶにはま足りていない要素が多いと言えるだろう。
絵に関してはもしかしたら好みが分かれるのかもしれないが、万人受けしやすい、丁寧で魅力的な絵であると思う。
UXに対して思うこと
ゲームの企画を作るときに、大抵はユーザーエクスペリエンス(UX)がどうなんだとかコンセプトはなんなんだとか、一言で言おうとすることがすごく多い。
企画においてUXは、概ねゲームのアクション性とかシステムとかについて、どういう風に楽しいかということを指している。
「一気になぎ倒す爽快感」だとか、「一人ではできない困難を超える達成感」だとか。
またゲームが目指す体験の理想状態をUXビジョンと呼んだりするらしいが、最近こういうある種の「ツール」のようなものに対して疑問を持つようになってきた。
まず、こういう「ツール」は繰り返しの多いゲーム(ソーシャルゲームとか対戦型ゲーム)においてはかなりの効果を発揮する。
それはそもそもゲームとして遊びのシステムが単一か非常に限られているから、その部分を洗練させることがゲーム全体の体験を向上させる上で非常に効果が高いだからだ。
逆にオープンワールドやサンドボックス型のゲームではそういう考え方が邪魔をするような気がする。
例えば、「GTA」や「マインクラフト」に含まれる遊びすべてを何かしらの理想状態として具体的に定義することはできるのだろうか。
そういうゲームを考える時、UXを絞ることはゲームの可能性を狭めているに感じる。
欧米人はよく「ゲームをやっている自分は自由であるはず」という考えを持っているらしく、制限が多かったり、できることが少ないゲームにストレスを感じるらしい。
世界をどんと一つ作って、あとはお好きにどうぞ。というのが今後(というかすでに)ゲームの主流なのではないだろうか。
そういうゲームでは何かクリアする達成感を得るのではなく、面白いことを考える楽しさがメインのUXになっていて、もはや楽しさの大部分がプレイヤーのアイデアにゆだねられている。
ただ、ある程度は与えられた課題というのを用意してあげる必要もあるだろう。
それと、いつかの企画書を作っている時に「試行錯誤する楽しさ」についてうまく伝えられないというか、感覚の差のようなものを感じたことがあった。
「試行錯誤」は一般に達成感や発見することの喜び、それに対する期待感と高揚感あたりが楽しいと感じるポイントだと思う。
その中でもうまくいったときの達成感が一番大きな楽しさを感じるポイントだとその時は言われた。
でも人によってはその道中の試行錯誤している最中が最も楽しい人もいる(自分がそうだった)。
あらゆる事に関する感覚は、思っているよりもかなり個人差があると感じた瞬間だったし、この感覚の差だけでも実装が全然変わってしまうのを感じた。
だけどどっちの感覚が一般的かとか、優先すべきなのかということを考えるには少し難しいようにも思う。
ある行為による楽しさを感情に抽象化させることには限界があるだろうというのが自分のなんとなくの感覚だ。
人の感情は思っているよりもずっと複雑だ。
抽象化しすぎたモノは何か人間的な「味」や深みを失ってはいないだろうか。
そういう楽しさを無理に言語化する必要はあるのだろうか。
実際、細かい仕様とかサブコンテンツみたいなのは「ノリ」みたいな大雑把な感覚の共有で決まっていくことも多々ある。
尤も分析的な言語化というのは大切だ。が、シンギュラリティになるような名作っていうのは往々にして天才の才能という圧倒的な感覚によって作られている。
凡人には厳しい現実である。
運命の奴隷:「人はなぜ生きるのか」ということ
ジョジョの奇妙な冒険第5部「黄金の風」のテーマに、「運命の奴隷」という言葉がある。
森羅万象は運命というものを形作るための道具でしかないという考えであり、もちろん人もそうであるというものだ。
つまり人は生きているというよりも、運命に生かされているに過ぎない。
かの有名な実業家イーロン・マスクは「我々が生きるこの”現実”というのは誰かが作ったシミュレーションである」という「世界シミュレーション説」を支持するような発言をしていた。
もし我々がシミュレーション上に存在しているとするなら、運命というのは所詮コンピュータの計算でしかなく、そこに我々の「存在意義」みたいなものはあると言えるのだろうか。
私は割とこういう考えを支持する方で、それなりに妥当な考え方だと思っている。
これをただそのまま受け止めると、人生に意味などないという虚無的な主張になってしまうのだが、私は「黄金の風」が大好きだ。
それは「黄金の風」に登場するキャラクターたちがそういう運命を自覚しながらもその先に何か希望があると信じて戦うことを止めない、いつか目覚めようとする「眠れる奴隷」であるのが、いかにも人間らしい美しさであると思うからだ。
そもそもなんでこんな話を書こうかと思ったかというと、最近よく見るYoutubeチャンネルの動画で、そういう話の動画を見て思うところがあったからだ。
この動画で紹介されている本は、
1. 人は種の存続の為に生きる
2. 人には理性と本能がある
3. 幸せとは脳を喜ばせることである
ということを述べているというように要約されている。
個人的に思うところがあり過ぎたのでそれぞれ書くものとする。
*この先の話には個人を誹謗中傷する意図はないが、人によっては冒涜的と感じる表現や内容が含まれる場合があるので注意されたし。
1.種の存続の為に生きる
生命は種を存続させるのが目的である、なのでそのために生きるのだという主張であり、まあ理解はできる。
だがなぜ生命は種を存続させるのかというところについては「そういうものだから」と言って考えを放棄してしまっている。
そもそも「種の存続」という状態はどのような状態を指すのだろうか。
一般には持続可能かつ個体数が増加し続けるような状態を「種の存続」というのだろうが、ヒトという種は本当にそういう風に存続するように生まれた生物なのだろうか。
頭でっかちになってしまったがゆえに、ヒトという存在の在り方を勝手に規定しているだけではないのだろうか。
何にしても「人はなぜ生きるのか」という生命の誕生以来の命題を「そういうものだから」なんて乱暴な帰結に至るのはいただけない。
2. 人には理性と本能がある
という話で、種の存続の為に発達した脳が時に種の存続と反した行動をとることがあると書かれていた。
それは確かにそうなのであるが、例として挙げられていた避妊や自殺というのは、「種の存続」に反した行動というのはやや無理があるように思う。
まず避妊というのはマクロ的に見れば出生率や個体数の調整というシステムの一つであって、そういうシステムは「種の存続」のためだけに生きているであろう人以外の生物にも備わっている。
身体的、経済的なコストによって避妊をするということは、種の存続の為に「自分が死ぬ」のを避けることであったり、生命を存続させるには十分な資源がないことであり、むしろその理性によって「種の存続」の為に取った行動だとも言える。
次に自殺というのは「種の存続」に反した行為かどうかは立証できないということだ。
ヒトは種族としての大きな維持システムのうちに、アポトーシスという機能が備わっていて、そのために死んでいくのかもしれないということだ。
https://note.com/code1110/n/n6c58b063e95d
この記事では反証として、増えた自殺によって集団としての日本の社会が健康な社会になっているわけではないということを挙げているが、これに対する反駁的な説明はいくつかすぐに思いつく。
例えば、アポトーシスがヒトの認識を超えたシステムであるとするなら、幸福度や健全さなどと言う、人が考えた尺度を超える「大きな力」によって動いているはずだ。
そのような力に、果たして人が考える「種の存続」という考えは通用するのだろうか。
あるいは、ヒトという集団を生物の細胞に例えるなら、不良細胞が正常細胞によって除去されるような現象なのではないだろうか。
そう捉えるなら、自殺というアポトーシスに成功したから集団が持続可能という意味で健全な状態に戻り、自殺者が減っているとも捉えられるのではないだろうか。
まあどちらにしてもそのような「大きな力」を立証するのは不可能であろう。
(この例えはヒトという種族を一種の維持システムとしてマクロ的に捉えたことによる考察であり、一個人に対して誹謗中傷ではなく、また自殺を幇助する目的でもなく、一切の自殺を引き起こすような行為を擁護するものでもないことを付け加える)
元の動画の本の話に戻ると、結局のところ人間が行う全ての行為は「種の存続」の為に行われていると捉えることも出来るのではないか、ということだ。
そう考えた時、我々は自らの意志による「理性」によって何かを判断していると言えるのだろうか。
3. 幸せとは脳を喜ばせることである
この本全体としての主張は、理性によって「幸せ」の最大値を探して生きていくんだよ、ということだ。
そりゃそうですね、と言ったらそれで終わりなのだが、それだけだと何の意味もない誰でも知っていることなのでもう少し深読みする。
(そもそも「幸せをつかむ脳の使い方」という書籍なので、なんとなく「幸せ」みたいなものが欲しいと思っている人たちをターゲットにしているからそんなことを考える必要はないのだろうが)
それは人はなぜ本能的な快楽を理性的に制御する必要があるのか、ということだ。
これは結局、本能と理性が本来「種の存続」の為に存在している機能だからである。
本能が感じる快楽は「種の存続」に必要不可欠だが、時としてそれを騙る存在(薬物やタバコなど)が存在や長期的な予測が必要な判断が存在するので、それを理性が捌く。
「種の存続」を「そういうものだから」として受け取ってしまうなら、理性も本能も「大きな力」によって支配されたシステムでしかなく、「種の存続」の為に生きているだけになってしまう。
ただ漫然と「種の存続」の為に生きることは、本当に「自我を持った人」であると言えるのだろうか。
私はそれでもなお、「大きな力」に対して疑問を持ち、どうしようもない運命の先に何かを見出す力こそが「理性」だと信じている。
だから個人的にはこの本全体の主張が相容れないものである。
もし「種の存続」という「大きな力」に従うだけならば、それは目覚めることのない「運命の奴隷」だ。
理性とはそこから目覚めようとする「眠れる奴隷」たる資格なのだ。
それこそが人の美しさであり、人が人である所以なのだ。
というか、「種の存続」の為に生きるんだ!って言われて、はいわかりましたなんて気持ち悪いだろ、普通。
「そういうものだから」で納得できるのは小学生までだ。
いまさらアニメ「ピンポン」のこと:「ヒーロー」とは何か
私の個人的な感覚でしかないのだが、作者の主張が感じ取れない作品は大抵クソである。
その主張というのは愛だったり友情だったり作者の好みだったり、社会派なら戦争の悲惨さだったりまあ別に何でもいいのだが、人はそれを魂と呼ぶのだ。
(最近の)エンタメは魂のない見てくれだけの抜け殻が多すぎるように感じる。
少なくとも自分が関わる作品がそんなことにはならないように心がけたいものである。
時に、アニメ「ピンポン」は最高のアニメである。
ストーリー・演出・展開が主張の織り込みに完璧にマッチしている。
「映像研には手を出すな!」が湯浅監督によってアニメ化されたので記念に思い出しながら書くものとする。
アニメ「ピンポン」とは
アニメ「ピンポン」は同名の原作漫画が鬼才・湯浅政明監督によって2014年にアニメ化されたものである。
タイトル通り卓球をテーマにした高校生が織りなす友情・努力・勝利の物語なのだが、全部を説明するには長いし、考察記事はたくさんあるし大筋ではどれも大体同じ解釈なのでそちらを読んでいただきたい。
↓これとか
https://thinking-puddle.com/ping-pong-and-talent
ちなみに原作とアニメとは若干解釈が異なる点も出てくるがここでは触れないことにする。
「ヒーロー」とは何か
先に張った考察記事の通り、アニメ「ピンポン」は才能と愛をめぐるスポ根物語であり、「なぜ卓球を続けるのか」が物語の着地点である。
スマイルにとっては「暇つぶし」であり、ドラゴンにとっては「宿命」であり、チャイナにとっては「出世」ある。
しかしそれは卓球である必要はなく、ただ存在意義としての手段でしかない。
一方で人間にとってはそれが普通であり、皆なにかしら出自や人間関係に因る理由を持ち合わせている。
しかしペコは純粋なる卓球への「愛」が動機である。
そこには一点の曇りもなく、その他のすべての干渉を受けない。
だからペコは人を超えた「ピンポン星人」であり「ヒーロー」なのである。
つまり純粋なる愛が最大の才能であるというのがこの作品の言わんとすることの一つであり、いかにもスポ根漫画的というかジャンプ的というか、王道的な主張だ。
しかしながら、私としてはどちらかというと「ヒーロー」という存在が何なのかというのがこの物語の最も大事なところな気がしているので、「ヒーロー」について一考したものを書くがあくまで一視聴者の憶測によるものなのであしからず。
「ピンポン」における「ヒーロー」
ヒーローというのは大体、非凡な能力だったり正義の化身だったり常勝不敗だったりと、その時々の理想像であることが多い。
が、ひとまず「ピンポン」における「ヒーロー」とは何かを考えたい。
オババ:スマイルのために、打つのかい?
ペコ :ちげえよオババ、オイラがヒーローだからっしょ!
というインターハイ準決勝前の問答がある。
ペコは膝に爆弾を抱えていて、これ以上試合をすれば卓球が出来なくなるかもしれないという状況にあった。
卓球を何より愛しているならここでやめる判断をするはずだし、けがを押してでもやる理由が友であるスマイルのためでもなく、「ヒーロー」だからだというのだ。
このセリフから察せるのは、ペコは「ヒーロー」という理想像を果たすことこそが自分の生き甲斐であると感じているということだ。
ヒーローは理屈を超えてゆく。
ヒーローは常識を覆し、闇を吹っ飛ばす。
何より単純で、明るく、楽しく、輝いている。
というスマイルの独白や
ヒーローに弱点なんてありませんよ。
というセリフからもわかるように、「ピンポン」における「ヒーロー」は小学生が思い描くような、とんでもなく都合のいい完全無欠の存在を指している。
ペコはこの純真すぎるヒーロー像を体現し続けようとする存在であり、だからこそ「無敵のピンポン星人」であり続けるために棄権しなかったのではないだろうか。
誰より卓球を純に愛する天才だからヒーローになれたのではなく、言ってしまえば幼稚すぎるそのヒーロー像を貫かんとする生き様こそがペコを「ヒーロー」たらしめているのではないだろうか。
つまり「ヒーロー」とは、理想のために殉じる愚直さを持つ者なのだ。
スマイルとドラゴンはペコという「ヒーロー」にあこがれているがそうはなれなかったというのが最終話のエピローグ部分からわかる。
スマイルは卓球選手の道からは外れ、ドラゴンは日本代表から外され「凡庸な選手」になってしまった。
(ドラゴン自身が「凡庸な選手で終わりたくない」と話す時、背景にはペコのゴシップ写真が流れている)
この二人は「ヒーロー」になることを諦めてしまっているのだろう。
逆にチャイナは日本代表として初選出されていた。
これはチャイナが現実を受け入れながらも、卓球選手としてのし上がるという夢を諦めなかったからなのだ。
かつてスコンクで破ったペコが「ヒーロー」に返り咲いたように、チャイナも同じ道を歩んでいると言えるのではないだろうか。
「ヒーロー」の資格
人は人間関係とか世間体とか常識とか、現実という枷が案外複雑に絡まっている。
理想を成すといってもそれは多くの場合、何かしら別の動機を孕んでいる。
それは大抵の場合、それを成すことによって認められたいという承認欲求だったり、モテたいという色欲だったり、お金持ちになりたいという物欲だったりする。
だからこそ、人の欲を超えて理想を追求する姿は特別であり、美しく見える。
ペコが体現した「ヒーロー」もまさにそうであって、「だってその方がかっこいいっしょ?」と言いたげな生き様はなによりも純粋で美しい。
チャイナはペコに近いがペコになれないのは、未だ人の欲から離れ切れていないからではないだろうか。
真の「ヒーロー」たる資格は、純真なる者にのみ与えられるのだ。
人は「ヒーロー」になれるのか
私は「ピンポン」を、「ヒーロー」とそれを目指す者たちの物語と解釈したい。そう考えると「ピンポン」は何とも生々しい現実を見せつけながらも、人間の素晴らしさを称えた青春劇なのである。
作中、ペコという「ヒーロー」に触れた才気ある選手たちはその素晴らしさを知りながらも「ヒーローのようには飛べない」と、「ヒーロー」には成り得ないということを自覚しているような描写がいくつもある。
これは我々人間は「ヒーロー」になる資格を持たないということを暗示しているのではないだろうか。
人が人である以上、完璧な純真さというものを手に入れることは出来ないのは想像に難くない。
ペコという存在は理想でしかなく、我々は「ヒーロー」になることは出来ないという現実を匂わせているのだ。
しかし、スマイルやドラゴン、チャイナ(ついでにアクマ)は暗く立ち止まることなく、前に向かって進んでいる。
人は「ヒーロー」にはなれない。だけどそれを乗り越えて生きて行ける。
「ピンポン」はそういう人間の力強さを謳っているのではないだろうか。